当時の新聞の見出しには、
「津水死事件」「集団水死事件」「津の女生徒水難事件」「津の中学生水難事件」、
週刊誌では「津海岸集団水死」、また「津海岸女生徒水難事故」、
ネット上では「津海岸水難」、「三重県津市の橋北中学校の生徒の水難事件」といった名称が見られる。
この事件は、教師の注意義務とその範囲が裁判で争われ、日教組対反対勢力という政治的意味合いをもつものでもあった。
しかしながら上記各裁判所の判断にみられるように事故要因の発生原因については不明あるいは推定の域を出ていないものである。
7月28日、水泳能力のテストを行うことを教職員間で打ち合わせた後、体育主任は補助の3年生とともに一般生徒職員より先に学校を出発して、文化村海岸の訓練場に到着した。
水泳場設定時(午前10時10分前頃)は、小潮の日の中でも最も干満の差の少ない日の七部満ち前後の潮具合の時である。
無風快晴で海面には格別の波もうねりもなかった。
しかし満ち潮の流れとは違った潮の流れが前日とは逆に水泳場を南から北に流れており、これに気づいて教諭に告げた水泳場設定に当たった水泳部員もいた。
テストの方法は、沖の境界の表示竿から少し内側に色旗付竹竿を10m置きに約10本立て、2本目まで泳げた生徒には20mと書いた距離札を男子水泳部員が渡すというものである。当日参加した女子生徒は約200名である。
職員に引率され、体育主任らよりやや遅れて海岸に到着した一般生徒のうち女生徒に教諭が入水の注意、潮の流れがあることを告げ、点呼、準備体操の後テスト前の体ならしの意味で入水時間を10分間として午前10時頃一斉に海に入った。
男子生徒も同様である。
女子の集合場所は男女水泳場の中央寄りであったことから、自然にそこから女子水泳場東北隅に向かって扇形に散開するような形で海に入ることになった。
約200名の女子生徒は泳げない者が大半を占めていて、テストで少しでも泳げる者としての認定を受けようとして浅くて水泳に適さない渚寄りを避けて大勢が沖の境界線に集まった。
ところが海に入ってから2,3分後、女子生徒100名前後の者が水泳場東北隅附近で一斉に身体の自由を失い、溺れるに至った。
生徒のほかに女性教諭も溺れている。
溺れた生徒の一部の救いを求める声に驚いた職員や3年生水泳部員に海水浴客が協力して懸命に救助に当たった。
校長も生徒を引き連れ海に入っていたが、北に流され水泳場外で救いを求める数名の生徒に気づき、助けて上陸している。
教諭の一人が自転車で約500m離れた芸濃地区組合立隔離病舎に急を告げ、医師と看手が現場に自転車で急行、少し遅れて看護婦も到着、救い上げられた10余人にカンフル注射や人工呼吸を施した。
次いで樋口病院から自動車で医師が駆けつけ、この自動車を見た警察が初めて事故を知り、三重大学付属病院や伊勢市の山田日赤病院に応援を求めた。
津警察署からは救援隊が、三重県警察本部機動隊、久居の自衛隊衛生班、県庁職員も出動した。
4名の漁師も舟で救援に協力した。三重大付属病院から院長ら医師13名、看護婦8名が到着したのは12時15分であった。
14時50分には山田日赤病院から医師6名,看護婦10名も到着した。
49名を引き揚げ、必死の手当てで13名は意識を回復したが(5時間半の人工呼吸で助かった生徒もいる)、36名は生き還らなかった。
蘇生した13名は市内の病院で手当てを受けたが、うち6名は海水が多量に肺に入っていたため嚥下性肺炎を併発、28日夜重体に陥ったが29日朝危機を脱した。
橋北中学校の学校葬は8月1日に行われた。
なお、8月6日には岩田川で水難女生徒の冥福を祈る灯篭流しが行われ、花火を合図に人々が黙祷を捧げている。
十年前の七月二十八日、米空軍の落す焼夷弾を避けて海へ漬かった避難民百名ほどが、場所も全く同じ中河原のミオで溺死したという。
その時も例の“タイナミ”(安濃川の河口の水と南北へ流れる上げ潮がぶつかって起る波)が起って、アッという間に百余名の命をのんだというが、
いまもそのあたりの砂浜には、当時の避難民の遺骨が埋められている…
また1956年7月29日付の伊勢新聞には
「…当時おぼれて助かった女生徒の一人はそのとき海の底からたくさんの女の人がひっぱりに来たといっている」
「…終戦の年の同月同日、津市中心部が一夜にして灰燼に帰した空襲時に、この文化村海岸の松原に避難して爆死した多くの難民たちの無縁仏がひいたのだという伝説も想いおこされる」
という記述がある。
さらに、「…身元不明の遺体は砂浜に埋葬されたと聞きました。それから十年後同じ日、中学生の水難事故がありました。遺体の埋められた場所の近くです。生存者の話によると防空頭巾をかぶったおばさんが呼んだと云います」
という、7月28日の空襲時、海岸へ逃げそこでもB29による焼夷弾攻撃を受けたという体験談、
「この日は奇しくも十年前の昭和20年7月28日の焼夷弾攻撃の日であった。当時、中河原地区では焼夷弾で死んだ人々の霊がまだ成仏していないのではないかという、うわさが広まったそうである」
1963年には、女生徒の体験記が女性週刊誌に掲載される。
これは、頭にはぐっしょり水をすいこんだ防空頭巾をかぶり、モンペをはいた何十人という女がこちらに向って泳いできて、
「夢中で逃げようとする私の足をその手がつかまえたのは、それから一瞬のできごとでした」
「しだいにうすれていく意識の中でも、私は自分の足にまとわりつてはなれない防空頭巾をかぶった女の白い無表情な顔を、はっきりと見つづけていました」
というものであり、津市郊外の郵便局長の話として、1945年7月28日の空襲で警察署の地下室に逃げ込んだ人々が
「皆、煙にまかれて窒息死した。死者は250名をこえていただろう。その処理に困った市当局は、海岸へ捨てることに決めたが、漁師たちが反対したので、一部は油をかけて焼き、残りの大部分は砂浜に穴をほって埋めてしまったのだ」
という記述があり、これが「伝説」の原形であると思われる。
これはほぼ同じ形で、松谷みよ子『現代民話考に収録されているが、人々は蒸し焼きであり、もんぺをはいた女の人が大勢泳いでいて、こっちへおいでと招いたと変形している。
「引き取り手のない遺体はしかたなく津海岸の北の方、安濃川河口近くに葬られました」
ということになっている。
津への空襲は、1945年3月12日、3月19日、4月7日、6月26日、7月16日、7月24日、7月28・29日と大小合わせて7回に及んだ。
7月28・29日の空襲は米第20空軍第58大隊の第297作戦でB29・78機により、E48・500ポンド親爆弾2919発(662トン)を投下したものである。
親爆弾にはM69焼夷弾が36発納められており、これが10万5千84発投下されたことになる。
爆弾投下は28日午後11時47分から29日午前0時56分、高度は3300~3500mであった。
日本側は高射砲で応戦したが戦果はない。
その被害は津市中心部全域に及び、死者344、傷者246、行方不明38、全焼9188、罹災戸数10000、罹災人員41000に達した。
この事故以降、県内の中学校にプールの設置が急がれることになったとされている。
また三重県津市では海水浴場として阿漕浦や御殿場などがあり、潮干狩りやマリンスポーツ、海水浴などたくさん人が訪れるが、事故現場一帯の中河原周辺の海岸は遊泳禁止となっている。
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