1908年、雨情は後に協議離婚に至った妻のひろとの間に、長女「みどり」をもうけた。
人形のように愛らしい赤ん坊であったが、産まれて7日目に死んでしまった。
当時は、乳幼児が死ぬのはさほど珍しいことではなく、2,3割の子供が学齢前に死亡していた。
そのため、夫婦は子供を何人も産み、一所懸命育てた。
雨情もその後何人かの子供を授かっているが、長女の死を後々まで悔やんでいたという。
そしてある日、村(茨城県多賀郡磯原村)の少女たちがシャボン玉を飛ばして遊んでいるのを見た
雨情が、
娘が生きていれば今頃はこの子たちと一緒に遊んでいただろうと思いながら書いた詩が、この「シャボン玉」だというのが最もよく知られる説である。
しかし、これを裏付けるような決定的事実は無く、説の段階を越えていないとも言われている。
以上の鎮魂歌説は、テレビ番組において定説であるかのように放送されたため、一般に広まった。
しかしその他にも、
時期的な観点から実子ではなく親類の子への鎮魂歌であるという説や、特定のモデルはなく子どもの死一般を悼んだものとする説、
特に鎮魂の意は無いという説など、諸説存在する。
なお、雨情自身が子どもの死との関連について触れている資料は一切無い。
雨情の遺族の間でも意見が分かれており、現状では鎮魂歌説を含めいずれの説も確たる根拠を欠いていると言える。
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