水戸 赤沼処刑場での惨劇

水戸市東台2丁目は、元来赤沼町という町名であったが、赤沼町は赤い色をした沼があったのでそう呼ばれることになった。
 
ここに旧藩時代牢屋敷のあったことは誰でも知っている。

明治2年に廃された牢屋敷についての資料は、断片的に現存していても、詳しい事は分からない。

佐竹氏時代から桜町にあった牢屋を徳川初期にここへ移して4棟になった点だけは分かっている。

赤沼獄舎は町奉行の支配下にあって代々大右衛門を称する獄守がいた。
 
評定所で裁判の結果罪状が明白になると罪人は全てこの牢舎へ送られた。

四棟の牢舎は揚りや大牢、新牢、つめ牢の四つに分かれていたが、赤沼は元来湿地だから牢内はいつもジメジメしていて設備も悪く不衛生きわまるこの世の地獄だった。

明治二十年に死んだ久慈郡松栄村の学者綿引亨(号丈山)は、慶応二年入牢し「自筆堂記」を書いているが、それによると六坪の獄舎に二十四人の罪人が雑居し、入浴はさせず、洗濯もさせない。夜は無灯無枕、臭気ひどくて眠れなかったとその悲惨な生活を筆にしている。

藩末になると吉沼や吉田の刑場で行われていた磔や斬罪がここでも行われるようになった。
死刑囚は殺される朝は決まってサイの目に切った豆腐汁を食わされたので城下の町人達は明治、大正になっても、豆腐をサイの目に切ることを嫌い、首を切るときの音に似ているというので銭湯で濡れ手拭いの端を両手で持ちパッと音を立てて広げるのを嫌がった。

「水戸藩党始末」に、「蓋し水戸明答の獄たる、嘉永は弘化よりも苛に、元治よりも惨に、明治は元冶よりも虐なり」と書いてあるが、弘化、嘉永後の十数年は水戸城下は未曾有の恐怖時代を現出し、獄舎は毎日鮮血に染められた。

護国神社の合祀者名簿「水戸藩死事録」を見ても、安政から明治までの間に赤沼で牢死あるいは死罪になったものがざっと三百名はある。実際にもっと多かったに違いない。「討つもはた討たるるもはた哀れなり、同じ日本の乱れと思へば」武田伊賀守の辞世の通り、斬る者も斬られる者も日本人同士だったのだから時代も人間の頭もまさに異常だったのである。

獄舎のあとは現在根本常次郎さんの所有地だが、昭和十三年に根本さんはここに霊魂碑を建立した。

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